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地震その1

 今回の東北地方太平洋沖地震で被害に遭われた方、慎んでお見舞い申し上げます。
 また、お亡くなりになられた方のご冥福をお祈りいたします。

 東北地方太平洋沖地震があった時、私は八王子の方に行って居りました。
 そこで、大きな建物に入っていたのですが、そのゆれの凄い事凄い事…。

 近くの震度計では「震度5弱」だったそうです。私もこのゆれは久しぶりでした。

 ただ、その時にどうも…ゆれが物凄く長かったので、理科教員としての知識をもっても、恐怖を覚えました。

「これは、ただならぬ事態が起きているはずだ」

 そしたら、三陸沖の地震で、M7.9というではありませんか。

「おかしい、そんなにちいさなはずは無い」

 と思っていたら、「大津波の津波警報」が出されている地域どんどん広くなっていく…この時の恐怖はなかったです。

 家族の安否確認をしようにも、家には電話がつながらず…。震度分布から、もしかすると震度5強程度のゆれがあった可能性が否定できず、母が大変なことになっているのではないかと不安になりました。
 家は公営住宅(と言っても民間並家賃という民間より高い家賃の住宅)11階建ての10階です。地面が震度5強程度ならば、部屋の揺れとしては震度6弱程度のゆれになっているはずです。
(翌日の夜、家に帰ってみたら…確かに、震度6弱程度のゆれがあったようで、家具が動いていたり、本がバラバラと落ちていたり大変な状態でした)

 でも…M7.9程度の地震が宮城県沖であったとしても、今回のゆれはおかしいな…と思っておりました。なぜならば、震源から500キロは離れている八王子くんだりで震度5弱という揺れがあることもおかしいし、その揺れの時間があまりにも長かったからです。大きなゆれだとしてもせいぜい1分かそこらしかないはずですが、今回のは半端でない程長かったからです。4〜5分は強いゆれがあったでしょう。

 私は、近くにいた助手の子たちに「M7.9というのは小さ過ぎるから、改訂されるはずだ」と言い、「概ねM8.6程度の巨大地震のはずだから、見ていてご覧」と予測しました。
 また、「津波で沢山の死者が出るから、覚悟はしていた方がよいよ」と言いました。正直な話、私は仙台平野や三陸海岸、福島県浜通りに親戚が居ないから、冷静でした。もし、そこに親戚や縁者が居たら、気が気ではなかったでしょう。もっとも、中通りには親戚縁者が沢山いて、そこの揺れが「震度6強」という情報が入っていたから、そちらの方に心配が行きました。

 そうしたら、鉄道の復旧に全くの見込みがないことや…どうやら津波があちらこちらの町を襲って、沢山の町が滅亡しているらしい…というような情報もテレビから入手できました。

「これはムー帝国の滅亡並な話だな」

 この時、私は人生最大の天災がやってきたと悟ったのでした。自分に直接振りかかってこないけど、間接的なダメージは相当なものだろう…と。

 職場には生徒がまだ残っていて、帰宅困難になっておりました。
 校長と教頭の指揮の下、宿泊作戦が開始されました。

 私は、寝ずの番という訳では有りませんが、生徒が相談なりなんなりで来た場合に対処する為に、起きておりました。そして、その時間で成績処理などもしておりました。一旦家に帰ることがあっても、もしかするとしばらく出勤出来ない可能性もあるし、出勤してもこれから停電やら何やら無いとも言えないな…と感じていたからです。

 そうしたら、地震の規模を表すMが改訂されていくではありませんか…。

 気付いたらM8.8迄上がっていました。
 もう、通常のMでは測定出来ない領域です。恐らくモーメントMでの測定になるでしょう…と考えておりました。こういうとき、理科教員って嫌ですね…それも、地学が大好きで、大学入試の頃に地学だけは全国トップを取る自信があったくらいなので、尚更です。

 明け方に、北信濃、中越国境付近で地震があって…スキー教室に出掛けている生徒のことを考えて…泊まっていた先生を起こして、報告したり…。もう、なんだでもありませんでした。

 朝になって、生徒は徐々に帰宅していきました。

 そうして、一段落したところで、帰宅を考えるようになりました。
 午前中は成績を教務システムに打ち込んで、お腹が空いたので、何か…と思ったら、α米が出されておりましたので、それを調理(?)して頂きました。結構イケるものでした。

 午後、帰宅することにしました。
 しかし、電車は少なく、非常に苦労しました。JRの状況が余り芳しくなかったので、JRを避けて通るルートを利用しました。そのお陰で、普段なら1時間50分程度の通勤時間が4時間超になりました。ただ、徒歩で帰らなければならなかった人よりはだいぶマシで、長距離通勤者として、それはそれで良かったです。(帰宅困難に陥った場合、途中で帰宅困難になると大変だということは分かっておりました)

 考えてみれば、この地震で失ったものもあります。
 津波で直接被害があった所は大変でしたでしょうが、津波とは無縁に近い(私の場合は臨海部に近い所に住んでいるので、津波とは全くの無縁ではありません)所に住んでいても、失うものがあったのです。それを考えると自然の恐ろしさが身にしみます。

 3月11日に何もなければ、その日は飲み会でした。
 私が主催する教科内の退職なさる方とのお別れの宴でした。

 その後、17日〜は伊豆の方に出掛けて、年度末で終了する保養施設を利用した楽しい撮影旅行のはずでした。

 他にも、楽しいことが沢山あるはずだったこの春休み期間だったのです。

 その予定は全て吹っ飛んでしまいました。

 さすがM9.0の規模だけあって、とんでもない破壊力でした。

jupiterの投稿(20:05:06-2011-03-18) - カテゴリ: Main

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